まえがき(2008年6月)

人類は経験と叡智によって文化を生み出し、またそれを継承し、発展させることによって、現在の繁栄を築いてきた。この長年にわたって培ってきた文化の恩恵を私たちは受けている。数学は文芸と並んでこのような文化の最も古いもののひとつである。

しかし「数学」という言葉を聞くと、「難しい」という形容詞を連想する人が少なくないようである。そして小学校で学んだ「算数」、特に数の計算は確かに日常使っているけれども、中学や高校で習った「数学」はもう自分と関係ない、と思っている成人が多い。残念なことに「知識人」と呼ばれる人達からさえもそのような声が聞かれる。

本報告は、数学が実に豊かな拡がりを持ってこの世界の中に存在していること、その多くが社会生活を含む私たちの身の回りの事柄に深く関係していること、そして数学が私たち人類にとって大きな意味を持っていると共に、その高度に見える部分も実はこうした身の回りにある数学と密接につながっていることをすべての日本人が具体的に理解してほしいと願って書かれた。

まず、算数の世界、すなわち数と図形について私たちが小学校で学んだ内容は実に豊かな世界を持っていて、まさにそれ自身巨大な文化遺産だということを言いたい。一例を挙げれば私たちは数の計算その他で、十進記数法の恩恵を日々被っている。私たちは、普段空気の存在を忘れているように、その恩恵の大きさを意識していない。

そして数学の研究とともに生まれてきた様々の抽象的概念や、論理的なものの考え方とその成果は、状況を的確に記述する言葉、効果的な問題の処理法として様々の場で用いられ、新たな文化を生み出した。その最も大きい場は工学を含む自然科学であるが、20世紀後半以降社会科学から人文科学に至るあらゆる分野において数学の果たす役割はさらに飛躍的に拡大しつつある。

そこではもちろんより高度な数学が用いられるが、そのルーツは私たちが小中学校で学んだ算数・数学の中にある。ちょうど「不思議の国のアリス」で私たちのすぐ足下の草むらの中に全く別の世界への扉が隠れていたように。そうしたルーツを理解することは、現代文化の高みを知る手がかりになると共に、学校で学ぶ数学の世界の豊かさを知ることにもなろう。

しかも数学はそれを用いる専門家が知っていればいいものではない。現在私たちが日常生活の中でメディアの報道に接し、買い物その他の活動をし、さらに市民としての権利と責任とを持って行動する場合、私たちはそこで与えられる様々の説明の妥当性を判断しなければならない。そこでは統計をはじめとする数学が直接あるいは(科学的説明の根拠という形で)間接的に用いられている。私たちの多くは進んだ数学を自分から用いる必要は必ずしもないが、提示された内容の妥当性を判断できる程度の数理的な感覚・能力を成人として持っている必要がある。例えば、与えられた統計グラフが何を語っているか、あるいは語っていないかを適切に読み取ることは状況の理解・判断においてきわめて重要である。

上に述べたことは、いわば文化としての数学と私たちとの関わりであるが、もう一つ数学の方法・考え方・表現法が持つ私たちの日常との関わりがある。すなわちものごとを論理的に考え、的確に表現することは、私たちがものを考え、また相互に意思疎通をはかっていく場合に最も基本的なことであるが、数学ではこれらがきわめて「純粋に」目に見える形で行われる。したがって数学を学ぶ中で私たちはこうした論理的な思考法や抽象的な概念を用いた表現法を身に付けていくことができる。

本報告では、日本の成人すべてが持っていてほしい「市民」の数学リテラシー像として、こうした広くて豊かな数学の世界をできるだけ分かりやすい形で提示しようと努めた。そのために内容としては小学校あるいは中学校で学ぶものから出発し、それらがどれだけ豊かなものを持っているか、それらがどのような進んだ数学につながっているか、様々の事柄、特に自然科学の世界と関係しているか、そして数学の考え方・表現法がどう通常の言語によるものの考え方・表現法と関連しているかをできるだけ具体的に述べていく。

したがって数学を自らの専門的活動で積極的に用いる人々を直接の対象とはしていないが、そうした人々にとってもここに述べる数学理解を持つことは有意義であろう。

この意図がどれだけ成功しているかは読者の厳正な判断に委ねなければならないが、少なくとも本報告はこうした試みのひとつとして提示したものであって、様々の健全な批判を仰ぎつつ今後一層よいものにしていく所存であることは明言しておきたい。

最後に、本専門部会が「数理科学」の名称を用いている点について一言しておきたい。日本で「数学」というといわゆる「純粋数学」のことと取られる傾向がある。そうした狭い意味に限定されない、開かれた数学の有り様を示す趣旨で、最近では「数理科学」の語が用いられるようになっており、本専門部会でもその名称を採用した。しかしそもそも印欧語での「数学」の語(英語Mathematics)は「学ばれるべき(価値のある)もの」という意味のギリシャ語に由来し、「数理科学」の語はこの本来の意味への立ち返りとも考えられる。こうした事情をふまえ、本報告では伝統的な用語である「数学」の語を、ただし本来の広い意味で用いることとした。