3.1 言語としての数学

「数学は言語である」という言明に対し、理系と文系とで反応が分かれるようである。自然科学に関わる人達にとってはこの言明はきわめて当然である。だが、文系の人達はこれに「違和感がある」という。これは事実の両面を物語っている。数学はコミュニケーションの手段、考える手段としてまさに「言語」の機能そのものを持っている。しかし同時に自然言語からみると非常に「偏った」性格の言語であり、これが違和感を与えるのである。

以下、まず始めにこの「数学語」の特性について概括的に述べ、次いで「言語」としての数学語の働きを詳説しよう。「言語」の説明の通例として、数学語の「語」(word)、「文」(sentence)、文章(composition)がそれぞれどのようなものかを順に説いていくこととする。

 

3.1.1 「数学語」の特徴

数学の特徴として、次の2つがよく挙げられる:

1.抽象的であること(特に文字の使用);

2.論理的であること。

ところが、これらは実はいずれも「言語」そのものの特性である。しかし数学は通常の言語(自然言語)以上にこれらの性格が際だっている。特に自然言語の場合には、論理と共に、レトリックによる情緒的な働きも大きいのであるが、数学はこれをむしろ意識的に退ける。数学の文章では必ず論理の筋が通っていなければならない。正しい命題による正しい推論の連鎖によって結論に至ること、これは数学では必ず必要とされる文章のルールである。

さらに通常言語との違いとしては、

3.数学は基本的に「記述言語」であること;

4.用語の意味に曖昧さを許さず、言い方も限定されたもののみを用いること

が挙げられる。しかも数学でその記述に用いる記号はほぼ世界共通であり、数学者(や科学者)たちは数式を用いて「筆談」ができる。数学用語ではもちろんそれぞれの話者の言語が用いられるが、その多くは直接的に翻訳可能である。すなわち、その意味は万国共通なのである。この意味で数学は最もグローバルな言語で、英語をも遙かに凌いでいる。もちろん数学を通常の言語を用いて音声化して「語る」ことはでき、それはコミュニケーションに必要でもある。漠然とした表現や、例示的・暗示的な言い方を補助的に使うことも相互理解に有効であるが、知識体系としては上記の骨組みがきちんと存在していなければならない。もう1つ、さらに数学語に特有のこととして、

5.思考・コミュニケーションの補助手段としての図形(特にグラフ)の使用

がある。自然言語でも「シンボル」は用いられるが、数学では「数字」「記号」と並んで「図形」が本質的な役割を果たしている。数学が幾何学において「図形」の性質を探究することで自らの言語を精緻なものへと築き上げていったことは本質的に重要な事実である。

なお科学における言語としては、もう1つ新しいものとして「コンピュータ言語」がある。これは「コンピュータと人間がコミュニケートするための人間側の言語」である。これについては、情報科学専門部会の報告の中で語られるであろう。

 

3.1.2 数学語の「語」

数学用語 数学で用いる「自然言語(の独立語)」(これを普通「数学用語」という)はできる限り厳密に「定義」され、曖昧さのないものとなっている。例えば「円」とは「平面内にあって、ある点(中心)からの距離(半径)が一定である点全体の集合」のこととされる。また自然言語に比べると、数学語の語彙数は圧倒的に少ない。

もちろん定義にはまた数学用語が使われるので、この意味ですべての数学用語を厳密に「定義」しつくすことはできないが、理論の記述に当たっては「その場で用いるのに十分な厳密さ」が保たれるように配慮される。例えば「集合」は「ものの集まり」といった説明で済まされることが多い。しかし数学的に集合を取り扱う際は、集合に属する「要素」が定まっていて、あらゆる数学的な対象についてそれが「当該集合に属するか否か」が決まっている、という性質が重要である。

このことは特に数学教育で重要になる。学習者に対しては、不必要な困難を避けるために、必ずしも数学的に厳密な定義を行う(あるいは定義を変更する)ことなく用語を用いることが多い。しかし教師の側は、どこまで厳密さを犠牲にしているか、あるいは異なった定義を前提にしているか否かを自覚して指導にあたらなければならない。生徒が「分からない」というときに、実はその厳密性の不足や定義の不整合性を感じ取っているところに原因がある場合が少なくないからである。

同値な定義・概念の「自由さ」 数学の言葉はこのように抽象的で厳密に定義されるので、拡がりに欠けた「面白みのない」ものと誤解されがちであるが、実は全く違う。数学ではひとつの概念が様々の形、時には全く違う形で多様に「定義」され、それによって新たな世界の拡大が得られる、という自由さ、言わば「とびとびの」自由さを持っているのである。例えば5-3(5から3を引く)は直観的には、5個あるものから3個を取り去った残りの個数と理解される。これを3に加えたら5になる数、つまり加法の逆演算ととらえ直すことで、負の数への減法の拡張が可能になる。また「直線」は直観的には「まっすぐな線」であるが、数学的には定義を充たしさえすれば何でもいい。例えば球面上の「大円」を直線と見なすことで、ユークリッド幾何学とは異なる別の幾何学が得られる[1]。また平面や空間に「座標」を導入することにより、平面や空間の「点」という幾何学的概念は2個または3個の数という代数的な概念として表される。この言い換えを行うことで、私たちは私たちの持っている3次元までの空間的直観を越えて、いとも簡単に一般次元空間を考えることができる。つまり4次元空間の点なら4個の数の組、5次元空間の点なら5個の数の組、一般にn次元空間の点はn個の数の組 とすればよい。この数と幾何の対応は数学において最も重要な多面的にものを見る方法である。

数学記号 数学では、自然言語のための文字だけではなく、数学特有の「表意文字」である様々の記号(symbol)を使う。演算記号(+, -, ×, ÷など)、関係記号(=, <, ⊥など)、性質を規定したり、作用を表す記号(∠, √)などがある。多いようだが、これも漢字に比べれば、その数は圧倒的に少ない。

この中で最も重要なのは等号“=”である。これは両辺にある数学的な対象が「等しい」ということであるが、何が等しいのかは前もって定義されているか、その文脈に従って判断されなければならない。例えば整数を用いて分数表示された二つの有理数a/bc/dが「等しい」とは、ad= bcが成り立つことである(これは整数において「等しい」ということの定義ができているとして、有理数での「等しい」を定義しているのである)。よく見られる“1 = 0.999…”の問題は、じつはこの「等しい」が何を意味するか(今の場合、右辺で定義されている数列の「収束する値」が1に等しい)が明確になっていないために、理解が難しいのである(cf.[4.3.4])。これに近いものに「ある特定の性質が等しい」こと(同値関係)を表す記号がある(例えば≡(合同)、∽(相似)、⇔(同値)など)。

文字 数学では、数、図形(特に点)、性質、命題などの言語的なまとまりを一つの文字(あるいはその組み合わせ)で表すことが多い。これによって表記を簡略化すると共に、その表現する内容が一般的に成り立つことがらであることを言い表し、さらに文章(数式)の中でその文字が表すものの持つ数学的な役割を明らかにする。例えば(100+1)(100-1) = 101×99 = 9999 = 10000 –1 と数で計算したのでは、正しいことは分かっても、なぜそうなるか、偶然の一致か否かははっきりしない。これは文字で置き換えると一般的にとなることが分かって、初めてこれが一般的に成り立つことがらの特別な場合であることが(その理由を含めて)分かる。

文字は自然言語の代名詞にあたる。数学はいわば代名詞のきわめて発達した言語なのである。一方代名詞であるから、その文脈で何を表しているか、その表記の有効範囲がどこまでかが明確になっていなければならない。同じ文字が少し離れた場所で違うことを表す場合、また逆に同じ内容が少し離れると違う文字を使って表されている場合もあるので注意が必要である。

文字が数を表す場合、その文脈の中で、ある定まった数を表す場合(定数(constant))と複数の可能性を許容する場合(変数(variable))とがあり、両者は区別される必要がある。変数の場合、その数の取りうる範囲(変域)あるいは性格(「整数である」など)が明確になっていなければならない。また(条件によって)定まった数ではある(と期待される)が、まだ分かっていない数(を表す文字)は未知数(unknown)と言われ、既に分かっている定数(既知数)とは区別される。なお、同一の文字が定数であるか変数であるかもその状況に応じて変化するので注意が必要である[2]。

 

3.1.3 数学語の「文」

  • 命題 数学用語、記号、文字等を使って書かれる(数学的に意味のある)文を「命題」(statement)という。命題には幾つかの種類がある。
  • 定義と例 まずある概念や記号を定める「定義」がある。上の「円とは○○のことである」というのは定義の例である。定義の後には、具体的な「例」が書かれることが多い。ある概念を理解するのには、定義と共にその代表的な例を知ることがとても重要である。問題を考える場合には、まず具体例で考えてみることが解決のための良い助けになる[3]。
  • これに対し、1つあるいは複数の概念に関する重要で、後で応用がある性質を述べる「正しい」命題を「定理」という。「正しい」とは、正確には、公理系などの与えられた枠組みの中で定められた手順(演繹的推論)に従って「証明できる」ことを言う。例えば「円はすべて相似である」というのは1つの定理であり、この定理の事実が成り立つことから、円周率の定義が意味を持つ(円周率は円の取り方に依らず、定まる)ことが分かる。このように定理から直ちに導かれる命題を「系」という。定理ほどの重要性がないが、述べておいた方がいい正しい命題を(狭い意味で)「命題」という。この「重要性」の認識は人によって異なるので、どれが「定理」でどれが「命題」かは必ずしも定まっていないが、幾つかの「定理」はよく知られ、特別の名前が付いている。例えば、「高等学校までで習った最も印象深い定理は何か」とアンケートを取ると、「ピタゴラスの定理」(あるいは「三平方の定理」とも言う)が断然1位になる。これは「ある三角形△が直角三角形ならば、(が直角とすると)が成り立つ」という命題で、多くの命題はこのように、2つの命題P、Qを用いて「PならばQである」という形を取る。最初に述べたように定理は必ずその正しさを「証明」されなければならないが、その定理の証明のためにそこで用いられる命題を「補題」あるいは「補助定理」という。補題は(証明自身は難しくなくとも)その定理の証明の鍵となる大切なアイデアを述べている場合が多い。
  • 予想・仮説 数学の文章では原則として、そこで用いる命題は証明されていなければならないが、「正しい」かどうかが分からない命題もその重要さから扱う場合がある。否、学問研究においてはむしろそのような命題がたくさんあることが重要である。それらは「予想」あるいは「仮説」とよばれる。「フェルマーの最終定理」とよばれる命題「n> 2 のとき、をみたす自然数a, b, cは存在しない」は300年以上の長きにわたって「予想」であったが、10年余り前に証明されて今は文字通り「定理」になっている[4]。
  • 数式 数、文字、数学記号だけで書かれた命題を「数式」という。数式は、単なる記号の羅列ではなく、自然言語の1つの文として読むことができる。例えば“2 + 3 = 5”は「2に3を加えると5に等しい」と読める。また“|AB| + |BC| >  |AC|”は「(線分)AB(の長さ)と(線分)BC(の長さ)との和は(線分)AC(の長さ)より大きい(長い)」と読める。日本では数式が1つの(意味を持った)文であるという意識が余りない。これは数式の記号の記述順序が印欧語の文の語の順序に合う形で並んでおり、日本語の語順とは違うことが影響していると考えられる。例えば最初の式は英語ならば“2 and 3 is (equal to) 5.”とそのまま読める。
  • 恒等式・方程式 ある一定の範囲の数または量に対して成立する数式を恒等式(identity)という。これに対して考えている範囲の中の特別な数量に対してのみ成立する式を方程式(equation)という。それはこの特別な数量を未知数として、その性質を表現するものである。方程式に対し、それが成立する数量を求めることを「方程式を解く」という。上に挙げたは任意の実数a,bに対して成立する恒等式である。これに対し、 という式をみたす(この命題が正しい)実数x, yは限られており、座標平面を用いてそのような(x, y) すべてを表示すると、原点を中心とした半径1 の円が得られる。そこでこの式は原点中心半径1 の円の方程式と呼ばれる。

 

3.1.4 数学語の「文章」

  • 論証 文章とは一連の文からなり、全体としてある「主張」を述べるものであって、数学の文章も然りである。ただ数学の各々の主張は、一定の前提から定まった推論を経てその結論として得られるものでなければならない。すなわち「PならばQである。Pである。ゆえにQである」という形を取る。この場合、「PならばQである」という命題が正しく(すなわち証明され)かつ「Pである」という命題が真であるときはじめて「Qである」ことが真であると結論されることになる。これを「論証」(argument)とよぶ。私たちが「論理的にものを考える」と言うときに、一番大切なのはこの部分に関わっている。論証について3つの点を強調しておきたい。まず第一に、「論証」は「説明」とは異なる。すなわち論証は、数学に特有のある定まった手続きに従って行われなければならない[5]。説明では結論に相手が納得しさえすればよいので、「もっともらしい」でも十分な場合がある。しかし論証では、前提が真であることを受け入れる限り、相手は結論を受け入れざるを得ない。数学は推論について100%の確かさを要求するのである。次に、しかしその一方で「論証」は説明の一種であり、相手を納得させるためのもの(ただし否応なく)だということである。それは決して単なる約束事、手続きなのではない。そのプロセスひとつひとつが、(自分自身を含めて)証明を読む者に前提から結論へと至る道筋を説き明かすものなのである[6]。そして最後にもうひとつ大事なこととして、したがって論証とはあくまでも正しいことが分かった上でその正しいことの説明を記述したものであり、どのように正しいことが分かったかという「思考のプロセス」とは基本的に別物だと言うことがある。後者は問題解決のプロセスであり、それについては次節で取り扱う。
  • 命題の真偽 数学の文章において用いられる「命題」はまず(与えられた状況の下で)必ず真であるか真でないかが判定できるものでなければならない。「彼は私を愛している。」というのは、数学の命題とは言えない。「ユークリッド幾何学」のように一群の命題を「公理」としてそれが真であることを前提として出発する場合もあるが、これはむしろ「ユークリッド幾何学」という理論の定義であると考えた方がよい。よく知られているように、この公理のうち「平行線の公理」などをこれとは異なる別の公理で置き換えると別の幾何学(非ユークリッド幾何学)が現れる。
  • 証明 上に述べたように数学の文章において、命題の正しさは必ず「証明」されなければならない。その「証明」は、定義およびすでに正しいことが分かっている命題を根拠にした、「演繹的推論」とよばれる一定の手続きとして行われる。

その仕方は大雑把に言えば、上記の論証をさらに細かく分割する、「PならばQである、QならばRである。ゆえにPならばRである」という三段論法と呼ばれる形を連ねて証明されることが多い。他の形もこの変形と見なせる。ここで大事なことは、「証明」として実際に書かれるものは形式的観点から言えば「要約」に過ぎず、したがって、その書き方は一通りには決まらないということである。読み手とのある種の「了解」があって、ほとんどは簡略化した様々の表現を用いて書かれる[7]。多くの部分は形式的な操作あるいは前提や定義の直接的な適用であるが、(すでに証明されている)定理や命題が適用できればそれを用いて簡略化することになる。しかし多くの場合それは単なる省力化ではなく、むしろ証明の大事なアイデア、命題が成立する意味を明らかにする。また形式的な操作でも、例えば補助線を引いたりすることで、その証明の道筋が明瞭になる箇所がある。証明を読む者はこうした証明のキーポイントあるいはアイデアを見抜くことが証明の理解に不可欠である。単に論理の筋道を追うことは、証明の正しさの確認に過ぎず、証明の「理解」とは異なる。逆に証明を書く場合には、こうした方針やアイデアが読み手に明確に伝わるよう心がけなければならない。それが数学語の「良い文章」なのである。

  • 対偶命題・背理法 「PならばQである」という命題が正しいか否かは「QでないならばPでない」という命題(対偶命題)が正しいか否かと全く同じである。したがってある命題を証明するためには、その対偶命題を証明してもよい。例えば「2以外の素数は奇数である」ことは「偶数ならば2で割り切れる」ことから従う。

これと似たよく使われる証明法として背理法がある。これは「Pである」ことを証明するのに、「PでないならばQである」と「PでないならばQでない」という二つの命題を証明するやり方である。代表的なものとして が無理数であることの証明がある[8]。

逆必ずしも真ならず 「PならばQである」という命題に対し、「QならばPである」という命題を前者の逆という。前者が正しいからといって後者が必ずしも正しいわけではない。例えばある自然数が4で割り切れれば2でも割り切れるが、2で割り切れたからといって必ずしも4では割り切れない。これは「逆必ずしも真ならず」としてよく知られている。ところで「PでないならばQではない」という命題(裏命題)は逆命題の対偶にあたるので、同じ理由から「「PならばQである」から「PでないならばQではない」」という論法は正しくない。しかしこの論法は日常生活において、特に政治家のレトリックなどでしばしば使われるので注意が必要である。

「すべて」と「ある」 命題には複数の対象に対するものがある。上に現れた「ある自然数が4で割り切れる」という命題は、自然数nを特定して初めてその命題が真であるか偽であるかが定まる。このような命題を「命題関数」とよび、正確にはP(n) と書く。そして上の命題はより正確には「すべての自然数nについて、nが4で割り切れるならば、nは2でも割り切れる」となる。「すべての」なので、「全称命題」と呼ばれる。これが成り立たないことを言うには、成り立たない例(反例)が1つ存在すればよい。この命題の逆は「すべての自然数nについて、nが2で割り切れるならば、nは4でも割り切れる」であるが、n= 2 のときこの命題は成り立たない。すなわち「ある自然数nについて、nは2で割り切れるが、nは4では割り切れない」となる。このような命題は「存在命題」と言われる。逆に存在命題の否定は全称命題の形になる[9]。これを用いるとよく知られた「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」というパラドックスの正しい解釈が得られる。これは正確には「「すべてのクレタ人が嘘つきである」とあるクレタ人が言った」のであるから、「すべてのクレタ人が嘘つきである」という命題が正しくない(あるクレタ人は嘘つきではない)ことは、このことからこのクレタ人が嘘つきであることが知られるという事実とは(クレタ人が複数いるかぎり)何ら矛盾しない。

存在定理 「素数は無限個ある」という『原論』に書かれている定理がある。この場合私たちは存在を知っているだけで、その具体的なリストを知らない[10]。このようなタイプの定理を「存在定理」という。存在定理は現代数学になって重要になってきた。すなわち代数方程式や微分方程式の解について、その解を具体的に数値あるいは数式で表すことなく、「解である」ということだけからその様々の性質を導く方法が一般的になった([2.3.3])。この場合もし解が存在しなかったら一切の議論は無意味である。そこで別途解の存在を保証しておくのである。これに対して「解の公式」と呼ばれるタイプのものは、解そのものを数式の形で表す。2次方程式 に対して、「判別式 ならば実解が存在する」というのは存在定理であり、「その解はと表される」というのが解の公式である。

前者を証明するのには、関数の値の変化を調べればよく、解の公式は不要である[11]。一方後者では公式が意味を持っているかどうかをチェックする必要がある[12]。なお存在定理はあくまでも数学的に厳密な意味での存在を保証するものであって、私たちがその存在をリアルに感じられることとはずれが起こりうる。例えば私たちは実数(real number)の存在を疑うことはないが、複素数に対してはなかなか現実感を持てない。実数以外は「想像上の」(imaginary)数なのである。しかし存在定理の証明は前者の方がはるかに難しい。

効果的な(effective)証明 方程式などで解の具体的形は分からないにせよ、それを近似的に求めることは役に立つ。存在証明が単に抽象的に存在をいうのではなく、その解を求める方法(アルゴリズム)を与えている場合、そのような証明は効果的であるという。ニュートン法などの近似計算法の多くは収束するための十分条件とともにあるので、解の存在の効果的証明と言える。近年のコンピュータの発達によって、こうした証明法の重要性が一層増している。

数学的帰納法 数学に特有の証明法の1つに数学的帰納法がある。これは無限個の命題P(n)(nは自然数)を一挙に証明してしまう手法である。すなわち

P(1)が正しく、「すべてのnについて、P(n) ⇒P(n+1)」が正しい

ならば「すべてのnについてP(n)  が正しい」というものである。これは実は「自然数」の最も本質的な性質としてペアノが取りだした。すなわちこの証明法が正しいこと(数学的帰納法の原理)は自然数の定義(公理)に含まれる。

 

3.1.5 計算とアルゴリズム

  • (式)計算 数学の活動として大きな部分を占めるものに数や文字を用いる計算がある。計算の多くの部分を私たちは形式的に実行するため、そのプロセスを余り意識せず、途中を書かずに答だけ記すこともまれではない。しかしそうする前提として、計算はあくまでも数式を用いた文章なのだという事実を私たちは忘れてはならない(言わば非常に便利な定型文を書くようなものである)。すなわち計算手順を実行することは論理的な推論を行っていることに他ならない。そしてその計算1つ1つにはきちんとした数学的な意味がある。普段はそれを意識しなくてよいのだが、必要なときにはいつでもその意味が分かるのでなければ計算を「理解している」とは言えない。ここにコンピュータと人間の違いがある。なぜ分数の掛け算では分母同士、分子同士を掛ければよいのか、-1と-1を掛けたらなぜ1になるのか、それが納得できないのは、人間だからである。そしてそれを理解することは人間の成長にとって極めて重要である。
  • アルゴリズム ある種の一般的な問題についてその解に至る一定の手続きがはっきりしているとき、それをアルゴリズム(algorithm)という[13]。私たちは小学校で(非負の)分数や小数の四則演算について十進法に基づく筆算のアルゴリズムを学ぶ。また中学に入ると負の数の扱いや文字式の扱いを学ぶ。これらは代表的なしかも優れたアルゴリズムであり、人間が産み出した最大の文化遺産の1つである([4.2])。その発展として、連立線形方程式や高次方程式、微分方程式などを数値計算で解くアルゴリズムが開発され、知られている。こうした計算においてアルゴリズムが確定していて、機械的にそれを実行できることは私たちの思考エネルギーの多大な節約になっており、そこに数学の大きな価値の一つがある。またそうした手順の部分は現在コンピュータに任せることもでき、そのことで私たちはとてつもなく高い能力を獲得することができている。様々な計算機アルゴリズムの開発は、人間業では考えられなかったようなより広範な問題への解法を与え、数学としても新たな分野を切り開きつつある。かくしてアルゴリズムは最も古い文化でありながら、同時に今なお最もアクチュアルな文化であり続けているのである。
  • 計算量 その例を1つ挙げよう。コンピュータの普及に伴って、計算にどのくらいの手順の多さが必要になるかという評価が重要になった。手順があったとしても、然るべき時間内に計算が終了しなければ実用にならないからである。これは計算量の理論あるいは計算複雑性の理論として現在発展し、用いられつつある。
  •   ところでこうした最近の傾向から、小学校などでの計算アルゴリズムを学ぶ必要はないという意見があるが、これは正しくない。確かにアルゴリズムを実行するのは計算機であるが、アルゴリズムを考え出したり、それをうまく利用し、あるいは評価するのは人間である。そのためには代表的なアルゴリズムを知り、自由に扱えることが必要である。よりよいアルゴリズムを考えるとは、例えば計算手順を工夫して速く正確に答えを出すことがそれに当たる。また上に述べたような計算アルゴリズムの正当性を理解することは、有理数や整数の本質を理解することに直接つながっている。確かに計算アルゴリズムを直接用いるという意味での実用性は減じているが、それを知り、理解する重要性はむしろ増しているのである[14]。

 

3.1.6 図表現

数学言語のもう1つの大きな特徴は、直観的・総合的表現として図による表現(graphic representation)を持っていることである。数や記号による表現がきわめて厳密で正確な意味を持ち、その一方でその抽象性から理解の難しいところがあるのと対照的に、図による表現は直截的で「一目で分かり」「一度見たら忘れない」が、一方でその与える情報が多過ぎて多義的になってしまうことも少なくない。両者は相補う形で数学的内容を表現し、伝える手段となっているのである。

したがって図による表現では、図を見た者の受ける印象が表現されている内容と一致しているかどうかが重要である。不適切に表現された図では、その内容が伝わらないどころか、事実と逆の印象を受けてしまう場合さえある。意図的にそれが行われることも少なくない。いわゆる「統計で嘘をつく」場合である。そこで私たちはこうした図表現から「正確な」内容を読み取る能力、そしてその図表現が適切であるかどうかを含めて判断する能力を持たなければならない。言い換えれば、図表現は文章と同じく何らかの「主張」を持っているのであって、私たちはその主張が何であるかを読み取り、さらにその主張が正しいかどうかを判断することが必要なのである。

図表現には様々のものがあるが、よく使われるものとして、(通常の)グラフ(graph)、地図(map)の類、ダイアグラム(diagram)などがある。

グラフ (狭義の)グラフとは、幾つかの項目(有限集合)あるいは変数(量)に対応する量(数量化されたデータ)を長さ、角度といった量で置き換えて視覚化したものである。頻度などを表すに適した棒グラフ、変化を示す折れ線グラフ、割合を示す帯グラフ(以上は長さ)および円グラフ(角度)などいろいろの種類がある。また単に1個の量を示すのではなく、幾つかの量を重ねて1つの図に表したり、特別の表現を加えたりする(箱ひげ図)。これらは多く統計のデータ表示に用いられるが、数学内部でも関数のグラフはその性質の理解にきわめて重要である(cf.[2.3])。

図 幾何学は元来土地の測量にその起源を持ち、今も地図などを通して私たちの日常に深く関わっている。地図から情報を読み取る場合、私たちは幾何学的概念を用いている。地図上の長さと縮尺を知って実際の距離が知られるのは相似形の基本性質である。土地の案内図で「現在位置」の表示がないと分かりにくいが、これは座標で原点を指定することに対応する。座標軸に当たる情報は方位記号あるいは周辺の景色(特に道の向き)によって与えられる。幾何では円や多角形、直線といった簡単な図形に問題を帰着させるが、これは道順を示すときに必要なだけの情報を図示することと同じである。また地図の上にはさらに別の量や性質を表示できる。その代表的なものに等高線(及びその類似)がある。これは同じ量の場所を結んでできる曲線を幾つかの数値の場合に描いていく手法である。土地の高さの場合が等高線であり、天気図で気圧を量とした場合が等圧線である。これを用いると、間隔がつまっているところは変化が大きく、開いているところは変化が少ないという(数学的な)情報が得られるので、その結果、等高線の間隔は斜面が急かどうかを示し、等圧線の間隔は風の強弱を表すことになる。

   

図3 地図、天気図

ダイアグラム 人と人との関係などを表す相関図、層化した分類を示す系統図、手順を示す流れ図など、幾つかのものが「つながっている」かいないかを示すのがダイアグラム、あるいは(グラフ理論で言う)グラフである。上に挙げたものは多く単に分かりやすい表現に過ぎないが、近年こうしたグラフそのものあるいはその上に展開される構造の数学的性質を研究することが盛んになっている。その最初の例はオイラーによる「一筆書き」の研究である(cf.[2.2.3])が、そこで見られたように、問題をグラフのそれに帰着させることが有力な問題解決手段を与える。ただグラフの問題は、たとえ数学的には単純であっても、頂点の数の増大と共に計算量が飛躍的に大きくなる性質があり、近年の発展はコンピュータの発達や非線形問題研究の進展と軌を一にしている。カーナビでの最短経路探索などはその代表的な応用例である。

 

[1] ヒルベルトが直線や点を「無定義用語」として、具体的に「机」「椅子」を考えても構わないと言ったのは、妥当性を欠く。それらは例えば「2点を通る直線が1つしかもただ1つ存在する」という公理を満たす必要がある。これらの用語は前もって(a priori)に定義されてはいないが、公理系をみたす概念であるという形で最終的(a posteriori)には定義されている。このような定義の仕方を「運用的定義」(operational definition)とよぶ。直線の例で言えば、非ユークリッド幾何学の微分幾何学的実現によって直線とは常に(局所的には)最短距離を行く(「測地的」とよばれる)曲線(1次元の図形)という新たな(ユークリッド幾何・非ユークリッド幾何に共通な、否それどころか遥かに一般の状況の下に考えられる)性格付けを得たのである。

[2] 特に注意すべきは「助変数」あるいは「パラメータ」と呼ばれるものである。これは当該事象では当面定数として考えるが、さらに考察を進めた段階でその値を変化させることになる。

[3] 一方で「自明な」例も誤った命題を排除するのに役立つ。

[4] しばらく前には「(3次元)ポアンカレ予想」が解かれて話題になった。古くからあるのに今なお未解決の有名な予想に「リーマン仮説」「ゴールドバッハの予想」などがある。なお、こうした「予想」が証明されると、単にそれが「定理」に変わるだけではなく、その証明の過程で重要な理論の進展あるいは新しい理論の誕生があるというのが歴史的経験則である。

[5] 哲学で用いられるものと基本的に同じである。

[6] このような視点は学校(特に中学校)で証明を学ぶ場合にきわめて重要である。

[7] 前と一見矛盾する言い方になるが、読み手が納得してくれるならば途中を省略してよい。「証明されている」とは、正確に言えば読み手がどのように詳しい論証を要求してもそれに答えることができるという意味である(その意味でそれぞれの「書かれている証明」は一種の「近似」である)。学校の証明問題で生徒が迷うのは「どこまで書けばよいか、どこは省略してよいか」という点である。この場合の1つの指針は「読み手」として(教師ではなく)「一緒に学んでいる生徒達」を想定することである。

[8] が有理数a/bと既約分数表示されたと仮定して、この表示が既約でないことを示す。

[9] この形の論理は述語論理と呼ばれる。

[10] リストを書く方法は知っている(エラトステネスのふるい)が、それは証明を与えない。

[11] そのかわりに「中間値の定理」と呼ばれる位相幾何学的な一般的定理(本質的には実数の完備性)が必要になる。

[12] 実解の範囲で考える場合、D < 0 だと平方根が存在しない。

[13] この用語は8-9世紀のアラビアの数学者アル・フワーリズミーの名に由来する。

[14] 逆に言えば、意味も分からずに計算だけ実行できるようになることで終わるのは、人間の教育とは言えない。