4.1 論理的思考力

数学的知識を日常的に職業に活かしている、という人は比較的少数であろう。では、そうでない人々が数学を学ぶ必要はあるのだろうか。

たしかに、「数学」を各単元において学ぶ個別の知識、たとえば三角関数の加法定理のようなものの集積と考えるならば、数学から個人が受ける恩恵はごく限定的なものになるだろう。ただし、数学を、数学の知識と、数学的な「構え」の両者を含むものと考えるなら、数学は個人が幸福に生きているためのスキルとして不可欠なものとなる。それは、われわれの住む社会が、情報量と選択肢の多い現代の民主主義社会だからである。われわれには職業選択や住む場所を選ぶ自由があり、自分の時間を自分の意思で分割して使う自由がある。どこかに行く場合には移動手段を選べ、豊富にある商品から自由に選ぶことができ、今手持ちのお金がなくてもローンで買い物をする自由さえある。そのような社会とは、自分が幸せになるために合理的な判断ができる個人を前提とした社会なのである。それだけではない。行政・司法・立法に責任をもって参加する個であることを前提に、民主主義は成り立っている。つまり、われわれは、論理的思考力を身につけて、民主主義国家に責任ある主体として参加することが望まれているのだといえよう。

論理的思考力の中で、ここでは特に、①問題の構造を的確に捉える力(論理的に読み解く力)、②筋道を立てて考える力(論理的に考える力)、③論理的整合性のある表現をする力(論理的に表現する力)の3つの要素を挙げたいと思う。

われわれを取り巻く問題は、最初から、数学の文章題のような形で現れるわけではない。まずは、「問題の構造を的確に捉え、それを解決可能な形に変形する」という作業が必要になる。たとえば、家計のやりくりを論理的に捉えるならば、定まった収入の中で、それぞれに優先順位や効用といった重みのついた支出項目の最適な組み合わせを求める方程式を解いている、ということだろう。一方、家計のやりくりをそのように論理的に捉えることができず、財布にある金の範囲でそのときどきに好きなものを購入するだけの人々もいる。問題を的確に捉え、解決可能な形に変形する能力を常から有しているかどうかは、生活の質を大きく左右するといえる。

地球環境問題のように複雑かつ大規模な問題を捉える場面では、その問題に付随する莫大な情報を取捨選択する能力も問われる。その際、数学的素養が十分にない人々は、情報量の多いものにひきつけられ、選択してしまう傾向がある。たとえば、音声付動画の情報はテキスト情報に比べて、数十万倍の情報量となる。同じ画像でも白黒とカラーでは、情報量に大きな差がある。情報量が大きなものに判断が左右されるのも無理はない。このようなときに、数学を通じて培う、問題の見かけに惑わされずに構造を見抜く力が役に立つであろう。

問題の構造を的確に捉える力を養うには、現実問題に多くあたらせることが必要となる。そのためには、理科や社会科あるいは家庭科などの科目と連携しつつ、数学的に問題を捉えるトレーニングを繰り返し行うことが望ましい。また、数学の中においても、自然な言葉で書かれた問題を数学的に捉えなおして問題として設定しなおすトレーニングも必要となる。このような問題意識はPISAの問題設定からも強くうかがわれる。

こうして、問題を論理的に捉えた後、いよいよ「筋道を立てて考える」ことを通じて問題解決を図る。筋道を立てて考える方法としては、主として「帰納的推論」と「演繹的推論」の二種類が挙げられよう。帰納的推論とは、過去のデータや例などからある傾向を見出し、そこからベストと思われる解を選択する推論の方法である。帰納的推論が必ず正しい解に導いてくれるとは限らない。しかし、正しい解を予測する非常に効果的な方法だといえる。

一方、演繹的推論とは、前提から結論を正しく導くための方法論である。この場合、前提が正しければ、結果が正しいことがあらかじめ保証されている。逆に、結果が明らかに間違っている場合には、前提がそもそも間違っていたということを示すことができる。つまり、演繹的推論は、何が正しいかを判断するための方法論だといえる。

さて、こうして論理的に推論する方法を身につけて、個人がそれぞれに問題を解決できるようになれば万事OKだろうか。そうではない。問題どのように解決をしたか、また、なぜその解決方法が正しいかを他者と共有できる状態にすることができなければ、せっかく問題解決をしたとしても、その意味を失うことも多いからだ。ここにおいて、論理的に表現する力が求められる。問題をどのように捉えたか、そしてどのような方法で解決したか、その結果はどうであったか、などを的確かつ論理的に、そして第三者の納得が得られるような形で効率よく表現できることが望ましい。

問題は、個人で解決するものとは限らない。いや、むしろ、問題は往々にしてグループで、あるいは社会全体で取り組む場合のほうが多いだろう。そのようなとき、出発点である問題を共有するだけでなく、思考の過程をいかに共有するかが、問題解決の質や効率を左右する。このときにも、やはり論理的でわかりやすい表現をする力が求められる。そこに、言語としての数学の果たすべき役割がある。

現在、数理科学で用いられている式・アルゴリズム・証明などの表現方法は数学発生のときから存在したわけではない。文化や時代背景によらず、最も誤解が少なく、しかも効率よく、複雑な概念を伝達するための表現手段として数千年かけて整備されてきた、いわば人工言語なのである。記数法や数学記号は、概念をコンパクトに伝えるために発達してきた。証明は、真理にたどり着く道筋をゆらぎなく伝達する手法として整備されてきた。しかし、こうした「数学語」の表現方法は数学に留まらず、論理的な枠組みを必要とするあらゆる分野で活用されている。

以上、論理的思考力を①読み解く力②考える力③表現する力という3つの観点から述べた。論理的思考力による課題解決と知識共有ができる個人が求められる現代社会においては、これらの能力を備えているかどうかで個人の職業の選択の幅、生活の質は大きく影響される。子供たちひとりひとりにこれらの力をしっかりと身につけさせるような教育が求められる。個人の幸せだけではない。多様な文化背景をもつ人々が参画する国際社会全体にとっても、論理的思考力は必要不可欠な社会基盤だといえるのである。