4.3 無限

コンピュータがなお人間に及ばない、その最大の違いは「想像力」であろう。数学でその想像力を働かせなければならない典型的なテーマの1つが無限である。古代から、人間は様々の仕方で無限を考えてきたが、数学の進歩とともに「無限」の認識も深まって、数学的に厳密な扱いが可能になってきた。

 

4.3.1 無限とは

無限とは何だろうか。答は簡単で、「有限でない」ことである。例えば、無限個とは有限個でない、つまりどんな自然数Nをとってもまだ数え尽くせない部分が残っていることである。無限大とは、どんな数Mをとってもそれより大きいことである。例えばユークリッドの『原論』にある「素数が無限個ある」の証明は、有限個であるとしてその素数のリストに入っていない素数を構成することで矛盾を出すという背理法に依っている。

しかし人間は有限の世界に生きている。時間や空間は無限に続くものとされているが(永遠、無限遠)、私達の生きている時間には限りがあり、見たり聞いたりできる距離にも限度がある。無限については想像するしかない。

このため、無限を扱おうとするといろいろ難しいことが起きてくる。その困難を指摘した有名なものに「ゼノンの逆理」がある(後述)。ピタゴラス学派は有限の自然数の比として書けない数(無理数)の存在を知って、それを「数」として扱うことを止め、「長さ」の量を直接的に取り扱った。

また「ホテルのパラドックス」と呼ばれるものがある[1]:無限個の部屋を有するホテルがあって、満室であった。そこに1人の客が新たに来て泊まりたいという。そこで支配人は最初の部屋のお客に移ってもらうことにしてそこに新来の客を入れた。そして移る客をその隣の部屋の客に移ってもらってそこに入れ、これを繰り返して新来客を加えた全員が部屋に入ることができた。

これは有限の場合には決して起こりえない。席取りゲームを考えれば、N個の席しかないところに、N人より多い人がいたとすれば、必ずどこかの席では二人以上の人が席を争うことになる。これは「ディリクレの抽斗論法」あるいは「鳩ノ巣原理」と呼ばれて数学での証明テクニックの一つになっている。

実は「ホテルのパラドックス」はパラドックスではない。それどころか、現代数学ではこのようなことが起こることを「無限」の定義としている。すなわちある集合において、自分自身とその真部分集合との間に一対一対応が存在するとき、これを無限集合と呼ぶ。無限の世界では、有限の世界では考えられない不思議なことが起こる。

 

4.3.2 無限の度合い

現代数学は無限にも様々の段階があることを示した[2]

2つの集合(ものの集まり)の個数が同じであるとは、それぞれの要素の間に一対一対応がついていることである。これを2つの集合は同じ「濃度」(cardinality)を持つという。例えば(ある地域のある時点での)夫の集合と妻の集合の個数は等しい[3]。ところで有限の世界であれば、ある集合の真部分集合の要素の個数は下の集合のそれより必ず少ない。しかし無限の世界では真部分集合と同じ「個数」を持つことが起こりうる(必ず起こる)。例えば自然数の偶数の集合は自然数全体の集合と対応 によって一対一対応が付く。このように自然数全体と同じ個数(濃度)を持つ集合を可算(無限)集合と呼んでいる。整数、偶数、奇数などの集合が可算集合であることは見やすい。さらに有理数が可算集合であることも示せる。

では実数全体はどうだろうか。カントールは実数が無限小数展開を持つことと、対角線論法と呼ばれる巧みな方法を用いて、実数全体は可算でないことを示した[4]。つまり実数は有理数より本質的に多い。

 

4.3.3 無限大

「無限大」の概念は関数と共に現れる。例えば関数  はx= 0 で無限大であるという。グラフを描くと、確かにx= 0の近くで値がはみ出してしまって描くことができず、値は0のところで無限大になっているように「見える」。これはしかし有限のところの状況から、そう「想像して」いるのに過ぎない。x= 0ではこの関数は値が定義できない。「x= 0 で無限大である」とはより正確には「関数の値がx= 0に近付くにつれていくらでも大きくなる」ということである。つまりこれはx= 0という1点ではなく、その付近での関数の変化の性質を記述するものなのである。その意味でこれは動的な(dynamic)概念である。そこで普通は「無限大に発散する」という表現を用いる。冒頭で述べた言い方に従えば、どんな数Mをとっても、x  の絶対値を十分小さく取れば、関数の値がMより大きくなることをいう。

 のように、x が大きくなるにつれて値がいくらでも大きくなる場合には、「x  が無限大になるときに関数の値が無限大に発散する」という。

同じ「無限大に発散」でも、その発散する速さに違いがある。2つの関数  があって、いずれも無限大に発散するとき、もし  がやはり無限大に発散するのであれば、fgより高位の発散をするという。多項式関数は次数が高いほど高位の発散をし、指数関数は多項式関数より、多項式関数は対数関数より高位の発散をする(cf.[2.3.2])。

 

4.3.4 無限小

「無限」の取り扱いで最も大切なのは「無限小」の扱いである。第2章で「無限小解析」の語を出したが[2.3.3]、その意味を説明しよう。数列

を考えると、nが大きくなる(無限大になる)につれて、数列の値は0に近付く(ように見える)。数学的に厳密な定義としては、どんなに0との誤差d(> 0) を小さく設定しても、十分大きい自然数を取れば数列の値が誤差の範囲に収まることであるとして、数列  は0 に収束するという[5]。この場合は実際に1/dより大きな自然数を取ればそうなっている[6]

1 を3で割っていくと、いつまで経っても終わらない。これを私たちは「無限小数」を用いて

と書く。これはしかし、よく考えると= の意味がはっきりしていない。数学的には、割り算を繰り返すことによって得られる数列

が収束して、その値が1/3だという意味である。それによって初めて、よく問題にされる

という式の「正しい」解釈が得られる。すなわちこの等式は右辺の表す数列の値が「いくらでも1に近付く」ということを意味するのである。この意味でいかなる無限小数も収束して、1つの実数を定めることが示される。逆にすべての実数は有限小数または無限小数の極限値として表される。

ゼノンの背理で最も有名なものに「アキレスと亀」の話がある。足の速いアキレス(ギリシャの英雄の名)が亀を追いかける。アキレスが最初亀のいた位置に着いたとき、亀はすでに前に進んでいる。その進んだ位置にアキレスが着いたとき、亀はさらに前に進んでいる等々。したがっていつまで経ってもアキレスは亀に追いつくことができない、と。この背理を解く鍵は、確かに無限回のステップを踏んでもアキレスは亀に追いつけないが、それが「永遠に」を意味するとは限らないところにある。話を簡単にするために、アキレスは亀の2倍の速さで走るとしよう。アキレスが最初の亀の位置に1秒後に来たとして、そのとき亀は当初のアキレスとの距離の半分だけ前に進んでいる。するとアキレスは1/2秒でその進んだ亀の位置に来ることができる。当初からの経過時間は3/2秒である。同様に、次にアキレスは1/4秒で、次に亀が進んだ場所に来ることができる。当初からの経過時間は7/4秒である。同様に考えていくと、このステップを繰り返しても経過時間は2秒を超えないことが分かる。2秒経てばアキレスは亀に追いつく。つまりゼノンの背理で言われている状況は2秒経過する前のことで、「アキレスは亀に追いつく前には亀に追いつけない」ことを言っているに過ぎない[7]

 

[1] 「ヒルベルトのホテル」と呼ばれるが、出典がはっきりしない。

[2] 現代数学が無限の問題を正面から扱いだしたのは19世紀末のカントールあたりからである。

[3] もちろん一夫一妻制を前提とする。

[4] この対角線論法は重要で、(自然数論を含む無矛盾な)公理系にはその理論体系で証明できない定理が必ずあるというゲーデルの(第1)不完全性定理の証明でも使われる。

[5] これは19世紀半ばにワイエルシュトラスが与えた数学的に厳密な定義であるが、考え方としては、どんな厳しい精度を要求されてもそれに応えることができる「理想的状態」が成立しているということで、工学的にはきわめて自然なものである。

[6] そのような自然数が存在することは、実は実数の大事な性質の1つである(アルキメデスの原理)。

[7] 一方、この話でアキレスは必ず亀に追いつくものと思ったら、それも誤解である。もしアキレスが「疲れやすい」性質で、亀より速いことは速いけれどもその速さがどんどん亀のそれに近くなるとすると、場合によっては永遠に追いつけないこともあり得る。